LOGIN静かで平穏な時間だ。何も起こらない、誰もやってこない、何も私を脅かさない。現状は。
まだ昼過ぎであるにも関わらず、周辺は食後のように落ち着いている。野草がこすれ合う音と、たまにやって来る小鳥の囀り。村の中では時折話し声が聞こえてくるが、自分の任には関係のないものだ。それこそ、木か石であるかのように。頭上では先ほどまで晴れていた空に、いつの間にか雲が湧き出ていた。それらは音を立てない代わりに森のほうから丘のほうへと絶え間なく走り続けている。 雲は絶え間なく現れては、次々に吹き流れていった。雲の流れが速いときは、天候が崩れる兆しだという。それでどうして天気が悪くなるのかなど知らないし、ましてや何故雲の流れが速くなるのかなど教わったことはない。ただ、上官の「雲の流れが速いから急げ」という言葉の後には必ず雨が降っていた。そのため、この辺りの天候は恐らく近い未来崩れるのだろう。 雨風程度ならば、特に支障はない。問題は、その強さだ。豪雨、強風、果ては台風。悪天候にまで至るなら、任の遂行だけではなく村事態に影響も出るだろう。それに乗じて盗賊等に侵略行為を受視線の先にいたのは、果たして巨大なトカゲであった。大きさは先日の狼と同程度と言っても間違えではないだろう。全身を青黒い鱗に包み、下顎からは突出した牙がそびえ立つ。鋭い剛爪を携えた前足から放たれる一撃は、容易に人の命を奪えるだろう。ひと目見ただけで分かる、村の脅威となる存在。今まで気配を感じなかったことや姿の凶悪さから、魔獣に位置する存在と言って差し支えないはずだ。 恐らくは野盗とは関係のない、この近辺に生息する魔獣。野盗の中に魔獣を操れる魔法使いがいるなら話は違うが、だとするならもっと前に襲われているはずだ。徘徊性の魔獣なのかもしれない。火のような巨蜴の魔獣の瞳は、奥様を刺し抜くほど睨めつけている。確かに、もし魔獣が捕食を目的としているなら、この中で一番抵抗力のない者は奥様だ。「奥様、村の中へお願いします」 勧告すると、身を返して去って行く。すぐさま反応して離脱出来る一般市民はなかなかいるものではない。が、巨蜴の魔獣はそれにすぐさま反応して地を這うようにして追いかける素振りを見せた。対して、即座に地面へ向けて大剣を叩きつけることで進路方向を遮る。 巨蜴の魔獣は脚を止め、今にも切れそうな目つきで私を睨みつけた。「シメオン様、この村はこんなにも毎日のように脅威に脅かされているのですか」 問うと、杖術の彼はその質問を払いのけるように頭を振って否定した。恐らくは本当だろう。もし本当に普段から外敵の脅威に襲われているのなら、そもそもヤグラが出来てからでいい、なんて流暢なことを言っている場合ではないのだ。 巨狼に半蛇、それに野盗と目の前の巨蜴。なんて、タイミングの悪いときに着任してしまったのだろう。 ただ、脅威は常にやってくる可能性がある。現にいまは、目の前の巨蜴の魔獣に対処しなければならない。捕食の邪魔をした私を腹立たし気に見ていた魔獣が、その躰を完全にこちらへ向ける。どうやら標的を私へと変更したらしい。そのままその頑強な爪による一撃を、私目掛けて振り下ろす。揮われた爪撃は、しかし大剣を盾にするようにして防ぐ。 途端、鼓膜を襲う金属的な音。それはその一撃が、この鉄塊に相当する威力であることを示している。しかしその間に、杖術の彼は既に動
交代の者は昼を告げる、歌うたいの声と共に現れた。記憶の中を掻き探すが、やって来た彼は初見である。赤茶の波打つ豊かな髪を、項のところでまとめているその者。内側から肉を削り取られたように凹んだ頬に、何か遠くの物を見つめているような、少しぼんやりとした目つき。手には装飾の施された杖が握られていることから、恐らくは杖術を用いるのだろうと推測出来る。魔法使いとも取れるが、ロラや風使いの彼女を見るにどうやら魔法に杖は必要ないらしい。 杖術の彼は姿勢が悪く、獣みたく背中を丸めていた。「お初にお目にかかります。騎士のエメ・アヴィアージュと申します」 あまり言葉を交わしたくないのか、頭を軽く下げ、それきりだ。どちらにせよ、何も言ってくれないのは不便である。 そう思っていると、彼はおもむろに杖で何かを地面に刻み始めた。杖を走らせるごとに鳴る、がりがりという音。地面の固さから、もし持ち手が木製であったら刻むのは難しいだろう。そうして地面に書かれたのは、果たして「シメオン」という文字であった。親指を立てて自分を指し示していることから、恐らくは自分の名前だ。「シメオン、様」 確認するように、言う。対して彼は一度だけ点頭し、今刻んだばかりの自分の名前を足で消した。そしてヤグラの骨組みに体を投げつけるように腰かける。 それきり、杖術の彼は沈黙してしまった。 改めて彼を見てみると、茶色い外套で覆い隠してはいるがその身はだいぶ痩せ細っている。その身で杖を揮うとなると、威力には些か疑問が浮かぶ。 兵士時代のことを思い出すに、杖術を用いる者に会うのは稀だ。私も訓練の際に教官が使用しているのを見たことがあるだけで、実際の戦争で対面したことはない。その気になれば出来るのだろうが、杖術は人を殺すことに向いているわけではない。殺さずに制圧することには長けていそうだが、戦場でそれが必要になる場面は記憶にあるかぎりなかった。 杖術の彼も、そういったつもりでいるだろう。一人でも捕らえることが出来れば、尋問なり何なりして根城の場所を吐かせる。不殺を意識しているということはそういうことだ。略奪が目的なのか、或いはただの偵察なのかは分からないが、村に脅威を与えている以上、例え命のや
空は雲でいちように覆われていた。雨でも降るのだろうか。その重苦しい曇りに、なんとなくうっすらとだけ光が入ってくるボロ小屋にいる気持ちになった。 窮屈な視線が注がれるのを嫌でも感じる。自警団の者とすれ違うたび、その眼差しには冷たいものが宿っていると分かった。ただ朝の挨拶をした際、返してくれる者とそうでない者とがいる辺り、恐らくは自警団でも考えが二分化しているのだろう。 私に対する感情を。 村長と副村長がその例だ。 不安要素として早く結論を出した副村長、それに対しあくまで穏便に様子を見る村長。自警団でも、その二つの意見が主立っているのだ。村人たちは睥睨の眼で私を見てはこなかった。どうやら村人たちには私が間者の疑いがあることを未だ言っていないようだった。恐らく混乱を避けるために。だが、明らかに自警団が警戒しているのだ、野盗の説明をしないわけにはいかないだろう。現に何人かの村人は、挨拶の返事こそ返してくれたものの、その眼はどこか疑わし気な瞳だった。それはそうだろう、野盗が現れた場合、対処すべきは私なのだから。 その眼は正しい。自警団は昨夜から警戒しているなか、私はこうして一夜明けてから動き出している。村長たちから言われたから、なんて理由は村人には関係のないことだ。あまり印象は良くないだろう。責務を全うしていないのだ。そしてその印象を覆すには、結果で示すしかない。 ……何も深く考える必要はない。ただ職務を為せばいいだけだ。 ほどなくして、村の入口に立てられたヤグラが見えた。あまり高いようには見えない。精々、村の入り口に建つアーチと同程度だ。村の周囲を警戒するのを目的としたものなので、別に間違ってはいない。「やあ、来たね」 どこからか声がした。 それは明らかに、双剣の彼女の声だった。「おはようございます」 ヤグラの上から彼女が顔を覗かせる。ただ完成したとは聞いていないため、恐らくは彼女が勝手に使っているのだろう。一見完成しているように見えるが、そう伝えてこないということは何かしら事情があるはずだ。彼女にそれは伝わっているのかは分からないが、ともかく今の段階で私がそれを使用す
ただ予感がして、目が覚めた。 他人の力で目覚めることなど、憂鬱の塊でしかない。少なくとも、私はそう思う。今まで何度かその機会を経験したが、自分は起きているのにお前は眠り呆けている、という優位性を振りかざしてくる。そして私を嘲ることで気を良くしていくのだ。 眠らせてくれないのもまた、起こす者だというのに。状況からして無視するわけにもいかないのがまた煩わしい。 今回先に目を覚ましたのも、つまりはそんな気配を感じ取ったからだった。 眠っていた部屋の扉が開いたと同時、初めからそういった仕掛けだったように刎ね起きる。「おはようございます。……ああ、既に目覚めていますね。流石ですね騎士様」「おはようございます、リーデ様」 そこに現れたのは、果たして長鎗の彼女であった。夜警から戻り、その足でかは定かではないが、ともかく私を起こしにやって来た。夜通し立っていたであろう彼女の相貌からは、特に疲労した様子を窺えない。なので、恐らくは夜警に慣れているのだろう。普段から夜警に立ち慣れているのか、それともこういった警戒態勢はよくあるのかは分からないが、つまりはそういうことだ。「そろそろ交代の頃合いです。なので、準備をお願いします」「今はどなたが守っておられるのでしょうか」「セシルさんですね」 双剣の彼女だ。 今までの印象では、あまり真剣に守備をしているイメージはないが、警戒態勢では違うのだろうか。どのみち、私は任をこなせればいい。 誰かが運んでくれたのか、寝床の隣にいつの間にか昨日身に着けていた装備が置かれていた。物音がしたら勝手に起きるものだと自分では思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 ただ、今まで着込んでいた肌着がなく、代わりに少し洒落た肌服がある。鎧を装着するのに煩わしさはなさそうだが、服が突然別の物は変えられていることに違和感を覚えた。それとも、カルムでは肌着を贈ることが習慣なのだろうか。「すみません、今まで着ていた肌着があったと思うのですが」「ああ、あの使い古された。だいぶボロボロでしたので、差し出がましいとは思うのですが新しい物
「騎士殿よ、村長としてはどうしても聞いときてぇことがある」 霧がかかるように、顔から険しい相が現れる。問いは分かり切っている。自分が本当に村を陥れる間者かどうかだろう。本当だった場合も肯定するわけはないが、答えは否である。 そう問われると、思っていた。 しかし、村長の言葉は私の想定とは違う、慮外なものであった。「どうだ、この村は」 拍子抜けするようなことを言う。それは完全に想像の範囲外で、出鼻をくじかれた私は思わず「はっ?」という声を漏らしてしまった。「いやな、騎士殿から見てカルムはどうだと思ってな」「どう、と言われましても」 私の答えはいいえ、そう返す予定だった。それが蓋を開けてみればこの村をどう思うかという、なんとも曖昧な問い。改めて村長が危機感を抱いているのか分からなくなる。 そうやって答えかねていると、村長は私の滑稽さに動かされてか反射的に微笑む。「まだ二日間じゃ分からねぇか」 よく分からない、というのが率直な感想だ。寛容かと思えば、先刻のように私に悪意を向けてくる者もいる。受け入れられているのか、拒絶されているのか判断出来ない。いつもなら何も考えず任に務めるのだが、なんとなく調子が狂う。私に対する感情は悪意ばかりだったのに。ここでは様々な感情が、頭を乱しては別の思いがまたかき乱していく。戦場とは違う意味で、吹き付けるものが多すぎるのだ。「まだ、よく分かりません」「そうか。まあ、しゃあねぇな」 言いながら、村長は髪の毛に手をつっこんで頭を掻いた。「私は間者なのかどうかを詰められるとばかり」「聞いて、もしそうだった場合教えてくれんのか」 それはない。 そう首を振ると、「だろう」と言って笑った。「生憎優秀な奴らに恵まれてな。最終的な判断は俺が下すが、鎮座してるだけだ」 信頼している、という意味なのだろう。しかし判断を下し責任を負うという役目は、それだけで大きな負担を負う。ときに地位を失い、命を以て償う場合もある。それを集落の者達の適材適所という言葉だけで済ませるには、あ
「待ちなよ」 しかしその前に、呼び止められる。 両顎が張り、ずるそうな相を現した副村長だった。「明日だ。それまではいてもらう」 疑っているため、当然の主張ではある。だが自警団が監視に着くということに加え、警戒態勢であるとはいえカルム村は野盗に様子を探られていた状態だ。それを牽制するのは私の役目である。それなのに、私はまた責務を先延ばしにされてしまった。 もどかしい。私はただ、任務に就きたいだけなのに。与えられた役目すら全う出来ない。「……今は警戒態勢です。であればすぐにでも立つべきでは」 それに、副村長は呆れた風の息を吐く。「言ったろう、騎士様はいま疑われてるんだ。まあ、今は自警団みんなで立ってるんだ、今夜は大人しくしておいてくれ」 今まで得られないからと無視してきた信用、という言葉が私の責務を邪魔していく。確かに、国から仰せつかってやって来たといえ、村としてどちらを使うかと言えば信頼できる身内だ。「自警団の方が私の隣に立つのでしたら問題はないのでは」「保険だよ。まあカルムとしては、しっかりと疑いは晴らしてもらいたいところだがね」 ねぇ騎士様。 そう付け加えて、口角を吊り上げる。 彼の意図がよく分からない。私が不利になるよう口撃しているよう聞こえるが、しかしその言い様には正当性がある。口が悪いだけなのか、それとも明確に私を追い出そうとしているのか。これまでの言い回しからどちらとも解釈出来るため、判断が出来ない。口が悪いだけならどうでもいいが、後者なら考慮する必要がある。責務を果たせなければ、この国では私に価値はないのだから。「分かりました。では朝、責務を果たしましょう」「へぇ、随分と物分かりがいいね」 頬の上に描いたような微笑を漂わせながら、副村長は自分の顎を擦る。驚く表情すらみせずに。まるでそう答えるのが分かっていたかのようだ。私が反論する意味のなさを、副村長は分かっているのだろう。「騎士殿、今日はうちで寝ろ。それでいいだろ? ラヴァーグ」「ああ、そうしてくれ







